「内容がどうか」ではなくて結局は「誰なのか」

生徒と、教師の信頼関係によって、「科学的に明らかに誤ったレッスン」でも、良い結果を産むことがあります。衝撃的な事実ですが、これは間違いないことです。

逆のパターンもあり得ます。どんなに科学的に正しいレッスンでも、信頼関係がマイナスの状態であるならば、そのメソッドは届きません。

「生徒が疑いつつもレッスンを受ける」というのはまあまあ特殊な状況ですが、なくはないのですね。まあ例えば、生徒側がその先生の「一部の情報だけ取りに来た」場合とか。

有名なメソッドを立ち上げた先生などはよくこういうことがあるかもしれませんね。大事なことを伝えても、「いやその話じゃなくて、僕が知りたいのは本に書いてある58ページ目のことで,,,」の様な。

ああ、僕のところでもあるかもしれません。笑 こういう時って、「いやいや、その話に繋がることだから、まず話させてください」と伝えても、あんまり耳に入っていない様子なのですよね。情報を取りに来るレッスンも悪くはないと思うのですが、なんだか時間をとって対面レッスンをする価値が十分にはない気がします。

対面の価値は、やはりセッション的なものでしょう。音楽的にいうのならば「グルーヴ」というものであって、何かこうエコシステムとして循環するもの、有機的なもの,,,でしょうか。そこにあるはずです。それはレッスンをやはり心地よい空間にしようというお互いの心意気なのですね。そんな時にレッスンの効果が最大に発揮されるのでしょう。

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